P--675 P--676 P--677 #1一念多念証文    一念多念文意 【1】 一念をひがこととおもふまじき事。  「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(礼讃)といふは、「恒」はつねにと いふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、 をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の 義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり、と きとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。「一切臨終 時」といふは、極楽をねがふよろづの衆生、いのちをはらんときまでといふこ とばなり。「勝縁勝境」といふは、仏をもみたてまつり、ひかりをもみ、異 香をもかぎ、善知識のすすめにもあはんとおもへとなり。「悉現前」といふは、 さまざまのめでたきことども、めのまへにあらはれたまへとねがへとなり。 【2】 『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜  P--678 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸 有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。「聞其名号」とい ふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふ こころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりな り。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑 ふこころのなきなり。「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、 「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさき よりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきを もちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。「一念」と いふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」とい ふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願 生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねが へとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得 往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬな P--679 り。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」 はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御ここ ろのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとる と申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正 定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 【3】 しかれば、必至滅度の誓願(第十一願)を『大経』(上)に説きたまはく、 「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」と願じたまへり。 また『経』(如来会・上)にのたまはく、「若我成仏 国中有情 若不決定  成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」と誓ひたまへり。この願成就を、釈迦如 来説きたまはく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼 仏国中 無諸邪聚 及不定聚」(大経・下)とのたまへり。これらの文のこころ は、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚にも住して、かな らず滅度に至らずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるこころなり。またのたまは く、「もしわれ仏に成らんに、国のうちの有情、もし決定して、等正覚を成り て、大涅槃を証せずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるなり。かくのごとく法蔵 P--680 菩薩誓ひたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文のここ ろは、「それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定 の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚お よび不定聚はなければなり」とのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつる に、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住 す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいた るべき身となるがゆゑに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる」 とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。 この真実信楽は他力横超の金剛心なり。 【4】 しかれば、念仏のひとをば『大経』(下)には、「次如弥勒」と説きたま へり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり、竪と申すはたたさまと申すことばなり。 これは聖道自力の難行道の人なり。横はよこさまにといふなり、超はこえて といふなり。これは仏の大願業力の船に乗じぬれば、生死の大海をよこさまに こえて真実報土の岸につくなり。「次如弥勒」と申すは、「次」はちかしとい ふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとな P--681 り。このゆゑに「弥勒のごとし」とのたまへり。念仏信心の人も大涅槃にちか づくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚 の位にいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他 力信楽のひとは、この世のうちにて不退の位にのぼりて、かならず大般涅槃の さとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。 【5】 『浄土論』(論註・下)にいはく、「経言〈若人但聞彼国土清浄安楽  剋念願生 亦得往生 即入正定聚〉此是国土名字為仏事 安可思議」との たまへり。この文のこころは、「もしひと、ひとへにかの国の清浄安楽なるを 聞きて、剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すな はち正定聚に入るなり。これはこれ、かの国の名字を聞くにさだめて仏事を なす。いづくんぞ思議すべきや」とのたまへるなり。安楽浄土の不可称不可説 不可思議の徳をもとめず、しらざるに、信ずる人に得しむとしるべしとなり。 【6】 また王日休のいはく(龍舒浄土文)、「念仏衆生便同弥勒」(意)といへり。 「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなはちといふ、たよ りといふ。信心の方便によりて、すなはち正定聚の位に住せしめたまふがゆ P--682 ゑにとなり。「同」はおなじきなりといふ、念仏の人は無上涅槃にいたること、 弥勒におなじきひとと申すなり。 【7】 また『経』(観経)にのたまはく、「若念仏者 当知此人 是人中分陀利 華」とのたまへり。「若念仏者」と申すは、もし念仏せんひとと申すなり。「当 知此人是人中分陀利華」といふは、まさにこのひとはこれ人中の分陀利華なり としるべしとなり。これは如来のみことに、分陀利華を念仏のひとにたとへた まへるなり。この華は、「人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華 なり、最勝華なり」(散善義・意)とほめたまへり。光明寺の和尚(善導)の御 釈(散善義)には、念仏の人をば上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人とほ めたまへり。 【8】 また現生護念の利益ををしへたまふには、「但有専念阿弥陀仏衆生 彼仏 心光常照是人摂護不捨 総不論照摂余雑業行者 此亦是現生護念増上縁」 (観念法門)とのたまへり。この文のこころは、「但有専念阿弥陀仏衆生」とい ふは、ひとすぢに弥陀仏を信じたてまつると申す御ことなり。「彼仏心光」と 申すは、「彼」はかれと申す、「仏心光」と申すは、無碍光仏の御こころと申す P--683 なり。「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふ なり。「照」はてらすといふ、ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく 真実信心のひとをばつねにてらしまもりたまふなり。かの仏心につねにひまな くまもりたまへば、弥陀仏をば不断光仏と申すなり。「是人」といふは、「是」 は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す、虚仮疑惑のものを ば非人といふ。非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふな り、是人はよきひとと申す。「摂護不捨」と申すは、「摂」はをさめとるとい ふ、「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、信心ある 人をばひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異学・異見のともがら にやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪 鬼・悪神なやますことなしとなり。「不捨」といふは、信心のひとを、智慧光 仏の御こころにをさめまもりて、心光のうちにときとして捨てたまはずと、し らしめんと申す御のりなり。「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみ なといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむ と、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむもの P--684 をば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これ すなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしる べしとなり。この世にてまもらずとなり。「此亦是現生護念」といふは、この 世にてまもらせたまふとなり。本願業力は信心のひとの強縁なるがゆゑに、増 上縁と申すなり。信心をうるをよろこぶ人をば、『経』(華厳経・入法界品)に は「諸仏とひとしきひと」(意)と説きたまへり。 【9】 首楞厳院の源信和尚のたまはく、「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集・中)と。この文のこころは、「われまたかの摂 取のなかにあれども、煩悩まなこをさへて、みたてまつるにあたはずといへど も、大悲ものうきことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」とのたまへる なり。 【10】 「其有得聞彼仏名号」(大経・下)といふは、本願の名号を信ずべしと、 釈尊説きたまへる御のりなり。「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、う べきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。「踊」は天に をどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきか P--685 たちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。慶はうべきことをえてのちによ ろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたち をあらはすなり。「乃至」は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす。「一 念」は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさ まるなり。「当知此人」といふは、信心のひとをあらはす御のりなり。「為得 大利」といふは、無上涅槃をさとるゆゑに、「則是具足無上功徳」とものたま へるなり。「則」といふは、すなはちといふ、のりと申すことばなり。如来の 本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ、しらざ るに広大の利益を得るなり。自然にさまざまのさとりをすなはちひらく法則な り。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利 益にあづかること、自然のありさまと申すことをしらしむるを法則とはいふな り、一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらはすを法則とは申す なり。 【11】 『経』(大経・下)に「無諸邪聚及不定聚」といふは、「無」はなしとい ふ、「諸」はよろづのことといふことばなり。「邪聚」といふは、雑行雑修・ P--686 万善諸行のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ、 「不定聚」は自力の念仏、疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり。正定 聚の人のみ真実報土に生るればなり。  この文どもは、これ一念の証文なり。おもふほどはあらはしまうさず。これ にておしはからせたまふべきなり。 【12】 多念をひがこととおもふまじき事。  本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにて しるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称 名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあら はし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。 【13】 『阿弥陀経』に、「一日乃至七日、名号をとなふべし」と、釈迦如来説 きおきたまへる御のりなり。この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説 きたまひしに、如来に問ひたてまつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本 懐をあらはさんとおぼしめすゆゑに無問自説と申すなり。弥陀選択の本願、十 方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかひ(第 P--687 十七願)をあらはさんとなり。 【14】 諸仏称名の誓願(第十七願)、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏  十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」と願じたまへり。この 悲願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界無量の諸仏、ことご とく咨嗟してわが名を称せずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるなり。「咨嗟」 と申すは、よろづの仏にほめられたてまつると申す御ことなり。 【15】 「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は 一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみな をふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほ し、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、 余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。「行住座臥不問時節久近」とい ふは、「行」はあるくなり、「住」はたたるなり、「座」はゐるなり、「臥」は ふすなり。「不問」はとはずといふなり、「時」はときなり、十二時なり、「節」 はときなり、十二月、四季なり。「久」はひさしき、「近」はちかしとなり。 ときをえらばざれば不浄のときをへだてず、よろづのことをきらはざれば不問 P--688 といふなり。「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の 業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す 文なり。 【16】 一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異 学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰を えらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとへに自力 をたのむものなり。別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふ は、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、 とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに 別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとな り。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、 わがさまざまの善根をたのむひとなり。 【17】 「上尽一形」(法事讃・下)といふは、「上」はかみといふ、すすむとい ふ、のぼるといふ、いのちをはらんまでといふ。「尽」はつくるまでといふ、 「形」はかたちといふ、あらはすといふ、念仏せんこといのちをはらんまでと P--689 なり。「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の遍数によ らざることをあらはすなり。「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしき なり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふ なり。「為」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、 これといふ、あふといふ、あふといふはかたちといふこころなり。「重」はか さなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだ めなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。 【18】 しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真 実之利」とのたまへり。この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すな り。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出で たまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。 「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申す は、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の 願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとした まふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申す P--690 なり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門 といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量 寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善 は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。 この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無 碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業を ば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。円融と申すは、よろ づの功徳善根みちみちてかくることなし、自在なるこころなり。無碍と申す は、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳と申すは名号 なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。一実 真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来な り。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびき たまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりか たちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふ をたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを P--691 尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも 申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらは し、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏な り。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧 またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみち みちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十 方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。 【19】 『浄土論』にいはく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大 宝海」とのたまへり。この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあう てむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」との たまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころ なり。「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」 はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひと といふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死に とどまることなしとなり。「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よし P--692 といふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつとい ふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづ の善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこ ころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金 剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大 宝海とたとへたるなり。 【20】 「致使凡夫念即生」(法事讃・下)といふは、「致」はむねとすといふ、 むねとすといふはこれを本とすといふことばなり、いたるといふ、いたるとい ふは実報土にいたるとなり、「使」はせしむといふ、「凡夫」はすなはちわれ らなり、本願力を信楽するをむねとすべしとなり、「念」は如来の御ちかひを ふたごころなく信ずるをいふなり、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日 をへだてず、正定聚の位に定まるを「即生」といふなり、「生」はうまると いふ、これを「念即生」と申すなり。また「即」はつくといふ、つくといふは 位にかならずのぼるべき身といふなり。世俗のならひにも、国の王の位にのぼ るをば即位といふ、位といふはくらゐといふ、これを東宮の位にゐるひとはか P--693 ならず王の位につくがごとく、正定聚の位につくは東宮の位のごとし、王に のぼるは即位といふ、これはすなはち無上大涅槃にいたるを申すなり。信心の ひとは正定聚にいたりて、かならず滅度に至ると誓ひたまへるなり。これを 「致」とすといふ、むねとすと申すは涅槃のさとりをひらくをむねとすとな り。「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いか り、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいた るまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。か かるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無 碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へ いたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりを ひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すな り。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへ たるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめ て即生するをむねとすべしとなり。 【21】 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(礼讃)といふは、如来のちかひを P--694 信知すと申すこころなり。「信」といふは金剛心なり、「知」といふはしると いふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観な り、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふな り。「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたる こころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころな り、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・ 一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。 また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 【22】 これは多念の証文なり。おもふやうには申しあらはさねども、これにて 一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗の ならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことな し、これにてしらせたまふべし。   南無阿弥陀仏   ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなき  ゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書 P--695  きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべ  し。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびと  を、こころえやすからんとてしるせるなり。    [康元二歳丁巳二月十七日]        [愚禿親鸞八十五歳これを書く。] P--696